White Album 2/Script/2504

Return to the main page here.

Text

	Speaker		Text		Comment
Line #	JP	EN	JP	EN
1	木崎	Kizaki	「北原、頼んでおいた資料できてる？ 俺、そろそろ取材出かけたいんだけど」
2	春希	Haruki	「あ～、調整して打ち出すだけになってます。 すいません、あとちょっとだけ待ってください」
3	木崎	Kizaki	「ＯＫ、十分。 ああ、それとプリントアウトはモノクロでいいから」
4	春希	Haruki	「了解です。 すぐやります」
5	浜田	Hamada	「俺のデータ集計の方は…」
6	春希	Haruki	「すいません。 そっちは松岡さんに仕上げ頼んでます」
7	松岡	Matsuoka	「せっかくツール化されてるのに、 使いこなせないんだもんなぁ浜田さん。 このくらい自分でやってくださいよ」
8	浜田	Hamada	「そのツール作ったの北原だろ。 なんでお前が威張る必要がある？」
9	松岡	Matsuoka	「…で、北原。 交換条件で俺の頼んだ仕事どうなってる？ テキスト起こしとレイアウトとＰＤＦ化と…」
10	木崎	Kizaki	「それ全然等価交換じゃないだろ」
11	浜田	Hamada	「お前こそ若いくせに人に頼んでばっか…」
12	松岡	Matsuoka	「やっぱ目指すなら編集長ですからね。 今のうちに人使うことにも慣れておかないと」
13	浜田	Hamada	「人に使われたこともなくて人を使えるようになれるか。 俺たちは名前の前にサーなんかついてねぇ」
14	春希	Haruki	「木崎さん、松岡さん、両方とも上がりました。 はいお待たせしました！」
15	木崎	Kizaki	「お～サンキュ。 それじゃ俺出張に行ってくるから！ 今日は直帰なんでよろしく～」
16	松岡	Matsuoka	「お～サンキュ。 それじゃ俺、今日はこれで上がり…」
17	浜田	Hamada	「いいやまだだ。 俺の説教が残ってる」
18	春希	Haruki	「…その前にちゃんとチェックもして欲しいんですが」
19			………	.........
20			呆れたようにため息をついたふりをしながらも、 この騒がしい編集部の中で充実感を噛みしめる。
21			だって、こんなに騒がしい。
22	松岡	Matsuoka	「勘弁してくださいよ浜田さん～。 俺、今日は自分の一生を左右するかもしれない 大事な用が…」
23	浜田	Hamada	「連休ボケのリハビリという大事な用か？ お前昨日も今ぐらいの時間に帰ったろ」
24			年が明けてから数日が経ち、 編集部はいつもの喧噪を取り戻した。
25			昼間は多くの席が人で埋まり、 いない人たちからも電話で何度も連絡が入り、 気の休まる暇なんかなくなって。
26			夜遅くなっても、誰かが必ず残ってて、 電話の声やキーボードを叩く音が響いてる。
27			だから、俺はここにいる。 …いつでも、必ず誰かがいてくれるから。
28			ここにい続ければ、一人にならないから。
29	松岡	Matsuoka	「来週から！　来週から本気出しますから！ そんな厳しいこと言わないでくださいよ～」
30	浜田	Hamada	「笑わせるな！　風岡に比べれば俺なんか菩薩だ。 …北原とお前を比べると、俺のその優しさが 良くなかったのかもと思うけどな」
31	松岡	Matsuoka	「あ…そういえば麻理さん、 今日グァムから帰ってくるはずですよね？」
32	春希	Haruki	「あ…」
33	浜田	Hamada	「すぐ話を逸らすし」
34			そうだったっけ？ 麻理さんの休みって、確か…
35			………あれ？
36			今日、何日だ？
37	松岡	Matsuoka	「明日からやっと出勤か… いいなぁ長期休暇」
38	浜田	Hamada	「あいつの場合、 明日から年末までもう二日続けて休むことはないけどな」
39			そっか…明日から…
40	松岡	Matsuoka	「でもよかったな北原。 これで明日からヘルプじゃない まっとうな仕事にありつけるぞ」
41	浜田	Hamada	「ここまで自分を顧みれないってのも、 ある意味才能だよな、お前の場合」
42	春希	Haruki	「あはは…」
43			でも…
44			だから、なんだってんだ？
45			………	.........
46	木崎	Kizaki	「それじゃ俺出張に行ってくるから！ 今日は直帰なんでよろしく～」
47	？？？	???	「っ！？」
48	？？？	???	「…ふぅ」
49	松岡	Matsuoka	「あ…そういえば麻理さん、 今日グァムから帰ってくるはずですよね？」
50	浜田	Hamada	「すぐ話を逸らすし」
51	松岡	Matsuoka	「明日からやっと出勤か… いいなぁ長期休暇」
52	浜田	Hamada	「あいつの場合、 明日から年末までもう二日続けて休むことはないけどな」
53	松岡	Matsuoka	「でもよかったな北原。 これで明日からヘルプじゃない まっとうな仕事にありつけるぞ」
54	浜田	Hamada	「ここまで自分を顧みれないってのも、 ある意味才能だよな、お前の場合」
55	春希	Haruki	「あはは…」
56	？？？	???	「い…いる。 どうしよ、いるよ…」
57	？？？	???	「電話のこと、怒ってるかなぁ… やばい…どんな顔して会えばいいんだ…」
58	？？？	???	「でもなぁ… いつかは話さなくちゃならないんだし」
59	？？？	???	「………」	"........."
60	？？？	???	「………よし！」
61	？？？	???	「今日のところは帰ろう」
62	鈴木	Suzuki	「なに面白いことしてるんですか麻理さん？」
63	麻理	Mari	「っ！？」
64	鈴木	Suzuki	「んっ？ ん、ん～！？」
65	麻理	Mari	「騒ぐな！ おとなしくしてたら命だけは取らないから！」
66	鈴木	Suzuki	「ん、ん…んんんんん～！」
67			………	.........
68	鈴木	Suzuki	「ぷぁぁっ… はぁっ、はぁっ、はぁっ………はぁぁぁぁ～」
69	麻理	Mari	「………ただいま。 思ったより飛行機が早く着いたから ついでに寄ってみたの」
70	鈴木	Suzuki	「はぁぁ…はぁ…っ、 で、ついでにわたしの口を封じようと…？」
71	麻理	Mari	「そうやって悪意のある解釈しないの。 そうだ、鈴木にもお土産買ってきたわよ。 これ、現地の人しか行かないような雑貨店見つけて…」
72	鈴木	Suzuki	「いりません。絶対」
73	麻理	Mari	「あんただんだん先輩に対して遠慮なくなってきたわね」
74	鈴木	Suzuki	「で、一体どうしたんですか？ 明らかに挙動不審な人になったりして。 編集部に入るとなんかまずいことでもあるんですか？」
75	麻理	Mari	「い、いや、そんなことは…」
76	鈴木	Suzuki	「………」	"........."
77	麻理	Mari	「ただ、その…そう！　タイミング見計らってたの。 突然入ってってみんなを驚かせてやろうかな～と」
78	鈴木	Suzuki	「………」	"........."
79	麻理	Mari	「…別に深い意味はないんだってば。 そんなに人の顔ジロジロ見ないの」
80	鈴木	Suzuki	「麻理さん…もしかして」
81	麻理	Mari	「っ…な、なに？」
82	鈴木	Suzuki	「今年もまた佐和子さんと二人で ずっと飲んだくれてたんでしょ。 …肌、荒れてますよ？」
83	麻理	Mari	「うっさい！」
84			………	.........
85	鈴木	Suzuki	「なんてね。 わかってますって。 北原君のことでしょ？」
86	麻理	Mari	「違います」
87	鈴木	Suzuki	「顔合わせるのが気まずいんですよね？ …何も言わずに旅立っちゃったから」
88	麻理	Mari	「………まさか話したのか？　北原」
89	鈴木	Suzuki	「ええ、散々こぼしてましたよ。 麻理さんから連絡がなくて困ってるって」
90	麻理	Mari	[F16「あんなこと他人にバラすってどういうことだ… ][F16やっぱりあいつ、私のことからかって…」]
91	鈴木	Suzuki	「麻理さんが何も仕事の指示くれなかったから、 年末年始のバイトどうしようって…」
92	麻理	Mari	「ああそうだな北原には申し訳ないことしたよ！ 後で謝っておかなくちゃなぁ！」
93	鈴木	Suzuki	「…なんでそんなに反応が不自然なんですか。 わたし、嬉しくなっちゃいますよ？」
94	麻理	Mari	「…いや、確かに指示出すのすっかり忘れてた。 冬休みは来ないのかなとも思ってたし」
95	鈴木	Suzuki	「それがねぇ… 年末年始、朝から晩まで働きづめで。 全部の編集部回って仕事かき集めてくるし」
96	麻理	Mari	「…え？」
97	鈴木	Suzuki	「１日も休んでないみたいですよ？ 元日なんか明け方の四時くらいに 編集部から電話してきて…」
98	麻理	Mari	「………ちょっと待て。 それは一体どういう意味だ？」
99	鈴木	Suzuki	「あ、やば」
100			………	.........
101	松岡	Matsuoka	「それじゃお先～」
102	浜田	Hamada	「本当に来ないのか北原？ 別にお前は説教したりしないぞ？」
103	春希	Haruki	「…お誘いはありがたいですけど、 今日のうちにこれやっておきたいんで」
104			松岡さんの帰りが早いという話題は、 結局、浜田さんも早く上がって一緒に飲みに行くという 方向性で解決したらしい。
105			確か昨夜が会社の新年会で、 明日が編集部の新年会のはずなのに、 ある意味バイタリティ溢れる人たちだ。
106			ま、仕事も遊びも一生懸命やらないと、 こんな業界はやっていけないのかもしれないけど。
107			それはもちろん、男に限らず…
108	松岡	Matsuoka	「浜田さん早く早く。 俺、今日はあっさりとチゲ鍋がいいな」
109	浜田	Hamada	「俺の胃のことも考えろ… それじゃあな、北原」
110	春希	Haruki	「はい、失礼しま…」
111			と、浜田さんと松岡さんが 片方だけ意気揚々と編集部を出ようとした瞬間…
112	松岡	Matsuoka	「あ…」
113			目の前のドアが、まるで二人に襲いかかるように、 激しく開いた。
114	浜田	Hamada	「風岡？」
115	春希	Haruki	「え…」
116			ドアから背を向けていた俺は、 その名を聞く瞬間まで、ドアを開けた人のことも、 その人の表情のことも気がついていなかった。
117	麻理	Mari	「………っ」
118	松岡	Matsuoka	「お帰りなさい。 早かったですね～、麻理さ…ん…？」
119	浜田	Hamada	「な、なんだよ…おい」
120			俺は、慌てて振り返った。
121			…つもりだったけど、 実際は、まるでそっちを見たくないかのように のろのろと顔を向けていた。
122			自分でも気づかないうちに、 そのひとに対して過剰に反応しないよう、 脳が学習していたかのようだった。
123	春希	Haruki	「あ…」
124			多分、そうでもしないと期待しすぎてしまうから。
125			期待通りの人に会えなかったときの虚脱感が、 酷いことになってしまうから。
126			けれど…
127	麻理	Mari	「…どういうつもりだ？」
128	浜田	Hamada	「な、何が…？」
129			今度こそ、今まで求めていた結果が…
130			期待通りの姿が、 編集部の扉の前に仁王立ちしてた。
131	麻理	Mari	「浜田…あなた、北原を潰すつもり？ バイトだからって使い捨てるつもり？ …どうして誰も気づいてあげられないの！？」
132			…何故だかわからないけれど、 鬼のような形相で。
133	浜田	Hamada	「いや、ちょっと待てよ… 一体何のこと…」
134	麻理	Mari	「二度と北原に直接仕事を回すな！ 絶対に私を通せ！ 何時でも、私がどこにいても必ずだ！」
135	浜田	Hamada	「い、いや…確かにちょっとは頼んだけどさ…
136	浜田	Hamada	おい鈴木！　お前が大げさにチクったのか！？」
137	鈴木	Suzuki	「大げさじゃないんだ… わたしたちみんなの落ち度だよ。 完全に北原君に騙されてたんだ」
138	松岡	Matsuoka	「なにそれ？　どういうこと？ さっぱりわからない」
139	春希	Haruki	「っ…」
140			麻理さんと鈴木さんの視線が俺に向いた瞬間、 すぐに悟ってしまった。
141			…バレてしまった。 ここ数日、俺がどんな生活をしてたかが。
142	鈴木	Suzuki	「あのさぁ… この中で、今年に入ってから 一番最後まで残ってた人いる？」
143	浜田	Hamada	「俺、初日から二日連続で日をまたいでたぞ。 増刊号の表紙の期限が迫ってて………あれ？」
144			続いて、浜田さんの怪訝な視線までもが、 俺に向かってきてしまう。
145	鈴木	Suzuki	「じゃあさ… 朝、一番乗りした人いる？」
146	松岡	Matsuoka	「…すんません。 俺、来たときも帰るときも編集部は人でいっぱいでした」
147	鈴木	Suzuki	「一昨日さ…わたし、７時に顔出したんだよ。 休みの間に印刷所からミスの連絡があって、 朝の１０時までにそっち行かなきゃならなかったから」
148			松岡さんを除いた冷たい視線の三重奏が、 俺の背中に突き刺さっているのが物理的に感じる。
149	鈴木	Suzuki	「変なんだよ北原君。 いつ来ても、いつ帰っても、いるんだよ…」
150	春希	Haruki	「変って…酷いなぁ鈴木さん」
151			けれど、俺の中に焦りみたいな感情はない。
152			ただ、『あ～あ、バレちゃったか』と、 唇の端が皮肉めいて吊り上がるだけだった。
153	鈴木	Suzuki	「さっき麻理さんとわたしで 他の編集部に聞いて回ったんだけど、 北原君、抱えてる仕事の量が尋常じゃないの」
154	浜田	Hamada	「尋常じゃないって…？」
155	鈴木	Suzuki	「量だけで言えば、麻理さんレベル？ 松岡の三か月分くらい？」
156	松岡	Matsuoka	「何でもかんでも俺をオチにするのやめてよ…」
157	鈴木	Suzuki	「なのに、どの仕事の納期も遅れてないの。 ほとんど寝てないみたい。 もしかしたら、家にも帰ってないのかも…」
158	春希	Haruki	「そんなことあるわけないじゃないですか… ちゃんと着替えてるし、清潔にしてるでしょ？ ほら真っ白」
159			と、おどけた感じでシャツの襟をめくって見せても、 誰もが無反応のままだった。
160			…ノリ悪いなぁ。
161	麻理	Mari	「北原…」
162	春希	Haruki	「っ…」
163			久しぶりに、待っていた声が、俺を直接呼んだ。
164			けれどそれは、俺が一番待ち望んでいた 優しくくだけた呼び方ではなく、 二番目に待ち望んでいた叱り気味の呼び方でもなかった。
165	麻理	Mari	「昨日、何時に来て何時に帰った？」
166	春希	Haruki	「ええと…よく覚えてないけど、 ちゃんと電車で帰りましたから」
167			５時前の始発で帰って、 ６時ちょうどの電車でまた来た。
168	麻理	Mari	「一昨日は？　三が日は？ 今年に入って一日でも休んだ？ …というか、寝た？」
169	春希	Haruki	「あはは、やだなぁ麻理さん… どうしてそんな意地悪言うんですか？」
170	鈴木	Suzuki	「年末もずっと来てた形跡があるからよ。 上の階の佐野デスクが大晦日にも見たって」
171	浜田	Hamada	「………」	"........."
172	松岡	Matsuoka	「え、ええと…」
173	春希	Haruki	「だから大丈夫ですよ。本当に帰ってますって」
174			ちゃんと毎日シャワーを浴びてるし、 ちゃんと毎日新しいシャツに着替えてる。
175			寝てないからって、一体何の問題があるんですか…？
176	麻理	Mari	「北原…」
177	春希	Haruki	「あ…」
178			麻理さんが、俺の目の前に立つと、 キーボードに載せていた俺の手首を掴む。
179			その指の細さと、想像以上の力強さが、 『ああ、麻理さん帰ってきたんだな』 って実感を与えてくれる。
180			なのに…
181	麻理	Mari	「………帰るぞ」
182	春希	Haruki	「いや、だからこれだけは今日のうちに…」
183	麻理	Mari	「ふざけるな！」
184	春希	Haruki	「………」	"........."
185			けれど、その口から放たれる声は、 俺を叱っているにしては、愛情が感じられなかった。
186	麻理	Mari	「北原、去年私と約束したこと覚えてるか？ 勝手に他の部員から仕事貰うなって…」
187	春希	Haruki	「…そうでしたっけ？」
188	麻理	Mari	「っ！ 私の…上司の言ったこと守らないのも忘れるのも 社会人失格だ！　仕事ができてもそんな奴雇えるか！」
189	春希	Haruki	「………」	"........."
190			上司…ね。
191	麻理	Mari	「さ、帰るんだ。 明日から当分来なくていい。 …来ても仕事は与えない」
192	春希	Haruki	「そんな…困ります」
193	麻理	Mari	「だからって私を困らせるな！」
194	春希	Haruki	「っ…」
195	浜田	Hamada	「か、風岡…」
196	麻理	Mari	「私、今からこいつ連れて帰るから。 …帰らせるわよ？　いいわね？」
197	鈴木	Suzuki	「あ、は、はい…」
198	松岡	Matsuoka	「ええと…お疲れさまでした～」
199	麻理	Mari	「それと…ただいま」
200			抵抗、するつもりだった。
201			麻理さんくらいの力なら、 振りほどくことだってできるはずだった。
202			なのに… 俺の手は、女性の指に絡めとられたまま、 体ごと引きずられていくままだった。
203			眠いとか、疲れているとか、 相変わらずそんなふうには感じてなかった。
204			…体も心も、ほとんど感覚と遮断されてたから。
205			ただ最悪なことに… 繋いだ手から流れてくる温かさのせいで、 心の感覚の方だけが蘇ってきそうだった。
206	春希	Haruki	「………麻理さん」
207	麻理	Mari	「なんだ？」
208	春希	Haruki	「あけまして…おめでとうございます」
209	麻理	Mari	「………黙れ」
210			なんで、そんなに俺を責めるんですか。 それって、筋違いじゃないですか。
211			だって、俺のことなんか、どうでもいいんでしょ？
212			だから、ずっと連絡も入れずに 放っておいたんでしょ？
213			………	.........
214			……	......
215			…	...
216	運転手	Driver	「南末次駅着きましたけど… ここからどうします？」
217	麻理	Mari	「あ、はい、ええと… おい、北原のマンションはここからどう行くんだ？」
218			南末次駅前のロータリー。
219			『とりあえず』で麻理さんが指示したこの場所で車を止め、 運転手が次の行き先を促してきた。
220			…何故なら、俺がずっと細かい行き先を告げず、 拗ねるように下を向いてばかりだったから。
221			無理やり連れてきた手前、 麻理さんもあまり強いことが言えなかったのか、 ここまでは、そんな俺のひねくれた態度を黙認してた。
222			けど…
223	春希	Haruki	「いいです、ここで降りますから。これタクシー代。 それじゃ麻理さん、わざわざ送ってもらって…」
224	麻理	Mari	「駄目だ。マンションの下まで行くんだ。 さ、ここからどっちだ？　駅の反対側か？」
225			仏の顔も…というか、 無関心じゃない不干渉も、ここまでだった。
226	春希	Haruki	「だから大丈夫ですって。 ここからなら歩いてすぐですから。 …それに車だと一方通行も多いし」
227	麻理	Mari	「それでも車で行くんだ。 なぜなら、お前の部屋まで私が送り届けるからだ」
228	春希	Haruki	「え…」
229	麻理	Mari	「だから、ほら…ここからどっちだ？」
230			それは、困る。
231	春希	Haruki	「けど… そこのコンビニ寄っていきたいし」
232			だって俺… 部屋に、戻るつもりなんかないから。
233	麻理	Mari	「欲しいものがあるなら後で私が調達してきてやる。 だから今は、一刻も早くお前の部屋に戻るんだ」
234	春希	Haruki	「どこかで食事してから帰りたいし…」
235	麻理	Mari	「どうしても、私に部屋まで送らせないと… お前はそう言うんだな？」
236	春希	Haruki	「考えすぎですよ… ただ、寄りたいところがあるだけなんです」
237	麻理	Mari	「………」	"........."
238			ここ数日の経験からわかってる。 部屋に帰ったって…眠れる訳がないって。
239	春希	Haruki	「そういうわけなんで… 今日は本当にすいませんでした。 迷惑、かけてしまって」
240			そうだ、駅裏の漫画喫茶…
241			あそこなら、誰かの気配を感じていられる。 もしかしたら、少しくらいなら眠れるかも。
242	春希	Haruki	「じゃ、今度こそ失礼します。 運転手さん、開けて…」
243	麻理	Mari	「ごめん、須黒にやって」
244	春希	Haruki	「え…」
245			と、やっとドアが開いたかと思ったら、 麻理さんの手が、さっき以上に、俺の手首に食い込んだ。
246	運転手	Driver	「あ、あの～」
247	麻理	Mari	「須黒！ 今度こそ最後まで案内するから！ お願い運転手さん！」
248	春希	Haruki	「ま、麻理…さん」
249			今度は、手を取られただけじゃない。
250			開いた後部座席のドアは、左側に座っている麻理さんに がっちりガードされてしまっている。 麻理さんが動かなければ、俺は外に出られない。
251	運転手	Driver	「わかりましたよ。 …反対方向なんだけどなぁ」
252	麻理	Mari	「本当にごめんなさい。 迷惑かけます」
253			迷惑かけてるのは、明らかに俺の方なのに。
254			なのに麻理さんは、俺を見捨てるどころか、 一歩、踏み込んできた。
255			…今になって、急に。
256			………	.........
257			………	.........
258	麻理	Mari	「入れ」
259	春希	Haruki	「どこです、ここ…？」
260	麻理	Mari	「そんな話は後だ！ いいから入れ！」
261	春希	Haruki	「っ…」
262	春希	Haruki	「あ…」
263			どこかと訪ねてみたり、感嘆の声を上げてみたりとか… そんなのは、出来レースとしか言いようがなかった。
264			だって俺は、麻理さんが行き先を変更した時点で、 どこに向かっているか気づいていたんだから。
265	麻理	Mari	「適当に座ってろ。 今、飲み物用意する」
266			麻理さんの、部屋…
267	麻理	Mari	「…あのタクシーの運転手、絶対誤解してたぞ」
268	春希	Haruki	「何をです？」
269			エントランスホールにもセキュリティがあるマンション… エレベーターでは、最上階の１０階のボタンを押していた。
270	麻理	Mari	「年上の彼女の方がさ、 なかなか煮え切らない年下の彼氏をなんとか籠絡しようと、 一生懸命誘ってるふうに見えたんじゃないかな」
271	春希	Haruki	「………」	"........."
272			招き入れられた部屋も、 シンプルながら、一人で住むには広過ぎるリビングに、 大きな窓に大きく切り取られた夜景がマッチしてた。
273			以前、『小さなマンション』と言ってたのは、 やっぱり大嘘だった。 家賃、かなり高そうだ…
274	麻理	Mari	「…そう見られても仕方ないよな。 何やってんだか、私も」
275	春希	Haruki	「すいません…」
276	麻理	Mari	「そっちは私が自分の判断でしたことだからいい。 …謝るなら約束破ったことに対してだ」
277	春希	Haruki	「………」	"........."
278			それと…
279			男の影は、ないみたいだ…
280	麻理	Mari	「ほら、飲め。 少しは落ち着くぞ」
281			なんて、下世話な想像をしているうちに、 湯気をたたえたカップが俺の目の前に置かれる。
282	春希	Haruki	「いただきます…」
283			カップからは、ほんの少しだけ甘い匂いが漂っていた。
284			口に含むと同時に、湯気が鼻腔をくすぐり、 じわりと顔と喉に温かさを運んでいく。
285	麻理	Mari	「美味いか？」
286	春希	Haruki	「なんです、これ？」
287	麻理	Mari	「ポートワインのお湯割り」
288	春希	Haruki	「…なるほど」
289			喉から胃へと、 柔らかだけど、少しだけ刺激を伴って、 温かさが伝わっていくのはそういう訳か。
290			味もアルコールも多分に物足りないけれど、 体と心を温めるにはいいかもしれない。
291			…それで、救われるんなら、だけど。
292	麻理	Mari	「お代わりならまだあるから。 今日はそれ飲んで、ゆっくり休め」
293	春希	Haruki	「すいません。 麻理さん、帰国したばかりで疲れてるのに」
294	麻理	Mari	「別に。こっちはバカンス帰りだ。 それに向こうじゃほとんどホテルに引きこもって 酒ばかり飲んでたから」
295	春希	Haruki	「…若い女性の二人旅じゃないですね、それ」
296	麻理	Mari	「どうせ若くないからな」
297	春希	Haruki	「そんなこと… 今の俺にとっては、そういう人の方がありがたいです」
298	麻理	Mari	「………」	"........."
299			薄めたアルコールとともに、 麻理さんの優しさが、体に染み渡る。
300			あの、クリスマスの夜のように、 気づいたら涙を流してしまいそうになる。
301	麻理	Mari	「おかわり、作ってくるな」
302			いつの間にか、そんな中途半端な飲み物を、 一気に飲み干してしまっていたらしい。
303	麻理	Mari	「あ…しまったなぁ。 北原にもお土産あったのに、 荷物、全部編集部に置いて来ちゃった」
304	春希	Haruki	「いつでもいいですよそんなの… どうせキーホルダーですよね」
305	麻理	Mari	「…確かに正解だけど、 『どうせ』ってのが気になるな」
306	春希	Haruki	「すいません」
307			目の前に置かれたカップの中身は、 さっきより少しだけ赤が濃くなっていた。
308			喉を通したその味も、もとのポートワインに近くなり、 甘くてつんとくる湯気が、鼻から脳へと届いていく。
309	麻理	Mari	「………」	"........."
310	春希	Haruki	「………」	"........."
311			そんなふうに、黙ってカップを傾ける俺を、 麻理さんはしばらく黙って見つめていたけれど…
312	麻理	Mari	「なぁ、北原… お前、一体どうしちゃったんだ？」
313	春希	Haruki	「…何のことですか？ 俺、どうもしてませんよ」
314			予想通り…
315			というか、ここに招かれた時点で既定事項の、 麻理さんの[R心配^かんしょう]が始まった。
316	麻理	Mari	「してるだろ。一週間寝てないなんて。 いつか壊れるぞ」
317	春希	Haruki	「大丈夫ですよ。 普段だって睡眠時間そんなに多くないんですから」
318	麻理	Mari	「早死にするぞ。内臓とかボロボロになるぞ？ 肌、荒れるぞ？」
319	春希	Haruki	「麻理さんだって… 俺なんかより、よっぽど無茶するじゃないですか」
320	麻理	Mari	「私は大丈夫だ。 自分の体のことはよく知ってる。 健康診断だって毎年オールグリーンだ」
321	春希	Haruki	「俺だって、健康診断で問題出たことありませんよ。 それに…」
322	麻理	Mari	「それに？」
323	春希	Haruki	「別に、そうなったらそうなったで…構いません」
324	麻理	Mari	「っ！ そういう投げやりな態度がおかしいって言ってるんだ！ いい加減自分の今の状態に気づけ！」
325	春希	Haruki	「………」	"........."
326			無関心じゃない不干渉から、 無関心じゃない干渉へ。 そして、強く関心を持った干渉へ。
327			麻理さんは、今までよりもう一歩だけ、 俺に踏み込んできた。
328	麻理	Mari	「なぁ北原、頼むよ。 何か辛いことがあったのなら言ってくれ。 ついこの間だって、話してくれたじゃないか」
329	春希	Haruki	「麻理さん…」
330			心地よさから、多少の息苦しさへ… 少し、距離を縮めてきた。
331			その熱い息が、俺にかかるくらい。
332	麻理	Mari	「…結局、こうなってしまったんだから、 私の言葉なんて、何の助けにもなってないんだろうけど」
333	春希	Haruki	「そんなことは…ないです。 あのときは、嬉しかったです」
334			本当に、嬉しかったんだ。 あの時、一歩近づいてくれたことが。
335			少しだけ関係が深まったことによる息苦しさは、 俺の求めていたものだったんだ。
336	麻理	Mari	「それでも私、 なるべくお前の力になれるように努力するから…」
337			麻理さんに俺を救ってもらうための、 最初のステップだと思ってたんだ。
338	春希	Haruki	「ありがとう、ございます…」
339			…すぐに次のステップを求めてしまい、 それが叶えられなかっただけで自滅するくらいに。
340	麻理	Mari	「…済まなかったな。 北原が大変な時期に、長いこと留守にしたりして」
341	春希	Haruki	「そんなの仕方ないですよ。 仕事だったんだから」
342			だから駄目だ、駄目だ…何も期待するな。
343	麻理	Mari	「後半は単なる遊びだったんだ。 そっちだけでも、何とか切り上げて 帰ってくればよかった」
344	春希	Haruki	「そんなことされたら、俺、余計落ち込みます。 麻理さんに負担を掛けすぎてしまったって」
345			この人に、そういうところを見せちゃいけない。 本当の辛さを、俺の真実を話しちゃいけない。
346	麻理	Mari	「別にあんな旅行なんてどうでも良かったんだ。 …佐和子の奴、いちいちうるさいこと言ってくるし、 妙に煽ってくるし、散々だった」
347	春希	Haruki	「…楽しそうじゃないですか。 羨ましいですよ、そういうの」
348			だって、また揺さぶられるかもしれない。
349	麻理	Mari	「何が楽しいものか！ そのせいで私はとんだ赤っ恥だ。 それでいて何も解決しないで謎は深まるばかりで…」
350	春希	Haruki	「謎…ですか。 なんかミステリーツアーみたいですね」
351			こうして優しく包んでくれた翌日に、 急に距離を置いて、俺を突き放すかもしれない。
352	麻理	Mari	「私にとってはとてつもなく難解なミステリーだ。 [F16…[R年下の男^おまえ]の気持ちなんて」]
353			だから、この優しさを、この表情を… 額面通りに受け取ったらいけない…
354	麻理	Mari	「………はぁっ」
355			と、麻理さんは、自分のグラスにワインを注ぐと、 お湯で割ったりせず、そのまま一気に飲み干した。
356	麻理	Mari	「それで、それでさ… ここからは私の方から質問なんだけど」
357			だから、俺の顔にかかった麻理さんの吐息は、 さっきの湯気と同じ甘い香りがした。
358	麻理	Mari	「なぁ、北原… お前、もしかして、あのさ…」
359	春希	Haruki	「なんですか？」
360	麻理	Mari	「あ、あの夜の…」
361	春希	Haruki	「…はい」
362			それだけで、何月何日のことか、 お互いに特定できた。
363	麻理	Mari	「あのとき言ったことって、その…」
364	春希	Haruki	「…？」
365			けれど、こっちの方は、 俺にその意図までは伝わらなかった。
366	麻理	Mari	「………」	"........."
367			麻理さんの方にも『俺に伝わらなかった』ことだけは 伝わったらしく、少し落胆も含めたため息をつく。
368	春希	Haruki	「麻理さん…？」
369	麻理	Mari	「っ………………………」
370			正確には、伝わらなかったんじゃなくて、 ただ、話の続きを避けてるだけだった。
371			どんな話題だろうと、その先に進むのに いまだ抵抗があるから。
372	春希	Haruki	「冬馬かずさの、ことですか…？」
373	麻理	Mari	「…ぇ？ あ、ええと、その…そうだ」
374			だから今は、話題を蒸し返すだけ。
375	春希	Haruki	「麻理さんって… 前にも言ったけど、 冬馬かずさに、少しだけ似てるんです」
376	麻理	Mari	「へ、へぇ…どういうところ？ 顔は違うよな。 向こうの方が綺麗だし、若いし…」
377	麻理	Mari	（そういうこと言うな！）
378			次のステップに進まないよう、 既存の話題を、ただ意味もなく、細かく掘り下げるだけ。
379	春希	Haruki	「そんなの比べられません。 冬馬には冬馬の、麻理さんには麻理さんの良さがあるし」
380	麻理	Mari	「私を誉めたって何も出ないぞ」
381	麻理	Mari	（具体的にはどこだよ）
382	春希	Haruki	「そうだな… まず、喋り方が似てます。 特に、ぶっきらぼうになったとき」
383	麻理	Mari	「………」	"........."
384	麻理	Mari	（いい加減にしろ）
385	春希	Haruki	「あと、自信満々なときの態度。 負けるわけがないとか、自分は天才だとか、 そういう台詞を思いっきり言い放つところ…」
386	麻理	Mari	「あ、そ」
387	麻理	Mari	（私は、代わりなのか…？）
388	春希	Haruki	「そういうところに弱いのかも、俺。 強い女性に憧れるところがあるのかも」
389	麻理	Mari	「…それはよかったな」
390	麻理	Mari	（それとも、最初から眼中にないだけか…？）
391	春希	Haruki	「けど、本当のあいつは違ってた。 強いように見えた冬馬は、実は弱くて…」
392	麻理	Mari	「………」	"........."
393	麻理	Mari	（その、どっちかでしか、ないんだな…）
394	春希	Haruki	「だから俺は、そのギャップに惑わされて… 色々と大事なもの、壊してしまったんです」
395	麻理	Mari	「………っ」
396	麻理	Mari	（ふざけるな）
397			昔話は、ここで終わり。 前回とまったく同じところで打ち止め。
398			そこから先は、話せない。
399			本当は聞いてもらいたかったけれど、 今の俺に、そんな勇気はない。
400			………	.........
401			久しぶりにカップに口をつけると、 ワインはすっかりぬるくなってしまっていた。
402			甘さもアルコールも抜け、 一気に飲みづらくなった液体を口で転がし、 ほんの少しだけ顔をしかめる。
403			…その間、麻理さんはずっと、 何かを考え込むように、俯いたままだった。
404			…そろそろ、帰らないと。
405			勢いで麻理さんの部屋にまで上がってしまったけど、 よく考えたらこれはとんでもないことで…
406			独身女性の部屋に、真夜中に。 しかも酒まで、なんて。
407	春希	Haruki	「あの、麻理さん、俺…」
408	麻理	Mari	「帰れ」
409	春希	Haruki	「………ぇ？」
410	麻理	Mari	「…というのも酷だな。 いい。今日は私が出ていく。 北原はここで寝ていいから」
411	春希	Haruki	「なんで…ですか？」
412			それは、俺が言い出そうとしてた通りの提案… いや、それよりも更に俺に配慮された申し出だった。
413	麻理	Mari	「当たり前だろ？ 自分の部屋とは言え、 男と二人きりで夜を明かすなんてできる訳がない」
414	春希	Haruki	「………」	"........."
415	麻理	Mari	「恋人でもない男となんか…」
416			なのに、この、消化できない鉄の塊を、 いきなり喉の奥に飲み込まされた感覚はなんだろう…
417	春希	Haruki	「俺の…力になってくれるんじゃ…」
418	麻理	Mari	「ベッドは使ってもいい。 朝になったら一度顔出すから」
419			“また”裏切られたって、 感じてしまうのは、なんでだろう…
420	春希	Haruki	「だったら…だったらなんで、 俺をこの部屋に上げたんですか？」
421	麻理	Mari	「北原が自分の部屋に帰ろうとしなかったからだ。 こっちにしてみれば、とんだ迷惑だった」
422	春希	Haruki	「な…」
423	麻理	Mari	「もう眠れるだろ？ それとも子守唄でも歌ってやらないと無理か？ …まるで子供だな」
424	春希	Haruki	「っ…」
425	麻理	Mari	「大丈夫か？ なら、おやすみ。 あ、起きたら自分の部屋に戻れよ」
426			ああ、やっぱり…
427			またこのひとは、直前で逃げるんだ。 俺を、放り出すんだ。
428			俺を… 見捨てるんだ。
429	麻理	Mari	「それと…しばらくバイトには来るな。 期末試験が終わって、少し頭を冷やしてからにしろ」
430	春希	Haruki	「麻理、さん…」
431			麻理さんが、立ち上がる。 自分の部屋なのに、俺を残して出ていこうとする。
432			でも、大丈夫。 だって俺は何も期待してなかった。
433			だからショックなんかじゃない。 突然の心変わりも、予想通りだったって受け入れられる。
434			だから『やっぱり俺、帰ります』って言えばいい。
435			そして明日から、またいつも通り…
436			頼りになるけれど、深く関わらない、 普通のバイト先の上司に戻るだけで…
437	麻理	Mari	「それじゃあな、北原…」
438	春希	Haruki	「………っ！！！」
439	麻理	Mari	「………ぇ？」
440			………	.........
441	麻理	Mari	「はい、ワインのお湯割り。 これで仕切り直しだ」
442	春希	Haruki	「っ…」
443			部屋を逃げ出して５分もしないうちに、 ふたたび麻理さんに捕まった。
444			なぜなら、マンションの外を出てから俺は、 どこに行けばいいかもわからないくらい混乱してて、 一歩も前に進めない状態だったから。
445			そんな俺の手を強く、けれど優しく握り、 麻理さんはさっきと同じように 俺を自分の部屋へと連れ戻してくれた。
446	麻理	Mari	「ちょっと着替えてくるけど… 絶対に逃げるんじゃないぞ？」
447	春希	Haruki	「～～～っ！」
448			その時彼女は、部屋までずっと俺に背中を向け、 その顔をなかなかこっちに見せてはくれなかった。
449			最初は、怒りに震えている表情を 見せないためかと思ってたけど…
450			本当の理由に気づいたとき、 俺以外に後ろを見せられないってわかってしまったとき、 もう、どうしようもなく涙が止まらなかった。
451			俺の精液で背中を汚したままなのに、 着替える時間も惜しんで、 俺を救うために外へ出てきてくれたんだって…
452			………	.........
453	麻理	Mari	「お待たせ…よし、いるな。 良かった」
454	春希	Haruki	「………」	"........."
455	麻理	Mari	「いや、最初は熱いくらいだったんだけど、 さすがに外に出たら冷たくて気持ち悪くて…」
456	春希	Haruki	「っ…」
457	麻理	Mari	「あ、いや… 特別に北原のだからとかそういう意味じゃなくて…」
458	春希	Haruki	「………」	"........."
459	麻理	Mari	「…もうちょっと真ん中に来たらどうだ？ 話、しないか？」
460			広い部屋の隅で、頭を抱えて俯く俺に、 麻理さんの、あり得ない優しさが、痛い。
461	麻理	Mari	「それとも、風呂にでも入ってくる？ 外、寒かったろ」
462	春希	Haruki	「………」	"........."
463	麻理	Mari	「………なんか言ってくれないかな？ 無反応ってのはちょっと辛い」
464	春希	Haruki	「………警察に突き出してください。 俺のこと、訴えてください」
465	麻理	Mari	「できるかそんなこと。 …北原の将来、奪うなんて」
466	春希	Haruki	「でも俺は… 麻理さんを奪おうとした。 …ほとんど奪ってしまったも同然です」
467	麻理	Mari	「それでも、訴える意味がない」
468	春希	Haruki	「なんで…ですか」
469	麻理	Mari	「勝てないから。 裁判で」
470	春希	Haruki	「………」	"........."
471			絶対に、ショックだったに決まってる。
472	麻理	Mari	「私が北原を無理やり部屋に連れ込んで、 しかも酒を飲ませて、泊まるように誘ったんだ。 証人だって、タクシーの運転手がいる」
473			俺のこと、信頼してくれてたのに。 ずっと目をかけて、可愛がってくれてたのに。
474	麻理	Mari	「そんな分の悪い告訴なんかしてる暇はない。 こっちは忙しいんだ」
475			飼い犬に手を噛まれるなんてレベルじゃない、 とんでもない裏切りで、肉体的にも精神的にも ボロボロにされたんだから。
476	麻理	Mari	「それに、私たちはセックスしなかった。 北原が、私の頼みを聞いて我慢してくれたからだ。 …だから、レイプなんかされてないよ、私は」
477	春希	Haruki	「なんで…そんな…っ」
478	麻理	Mari	「うん…子供、まだ作りたくないんだ。 今は仕事が一番大事だって思ってるから」
479	春希	Haruki	「そうじゃなくて！」
480	麻理	Mari	「悪かったのは私の方だから」
481	春希	Haruki	「っ…」
482	麻理	Mari	「北原が今、心が疲れてるって知ってて、 急に冷たく突き放そうとした。 …出張前のときと同じように」
483			なのにどうして… こんな時にでも、こんなに強いんだ、このひとは…
484	麻理	Mari	「ただ、一応言い訳しておくと、 あれにはちゃんとした理由はあるんだ。 …今はとてもじゃないが説明できないけど」
485			自分を傷つけた人間の目を真っ直ぐに見据えて、 相変わらずの優しくて気高い声と、態度で。
486	麻理	Mari	「さっきも言ったけど…ごめんな？ 色々と立場が上なのに、感情的になってしまって」
487	春希	Haruki	「そんなふうに俺を許さないでくださいよ。 憎んでくださいよ…」
488	麻理	Mari	「嫌だよ… せっかく目をかけて、大切に大切に育ててきたのに」
489	春希	Haruki	「っ…」
490	麻理	Mari	「私の後を継ぐのは北原しかいないって思ってたのに。 …いいや今だって思ってる」
491	春希	Haruki	「バイトなんですよ、俺？ それも人として最低の…」
492	麻理	Mari	「でも、来年は正社員になってくれるんだろ？ お前が本気になればウチ程度、絶対に入れる。 私が太鼓判を押す」
493	春希	Haruki	「無理ですよそんなの… 俺なんか、潰れてしまった方が… ここで終わった方が、世の中のためだ」
494	麻理	Mari	「無理じゃない。潰させない。終わらせない。 北原は私が育てたんだぞって、 お前の役員就任パーティの席で自慢してやる」
495	春希	Haruki	「麻理…さん」
496	麻理	Mari	「だから、この程度のことで挫折しないでくれ。 私からのお願いだ」
497	春希	Haruki	「そんな優しすぎること言わないでください。 でないと俺、麻理さんなしじゃ生きていけなくなる」
498	麻理	Mari	「っ…」
499	春希	Haruki	「っ…ぅ、ぅぅ…」
500			麻理さんが俺を庇えば庇うほど、 もう、心が痛くてどうしようもなくなる。
501	麻理	Mari	「お前なぁ…そういう卑怯な台詞言いながら 女の前でぽろぽろ泣くな。 それって結婚詐欺師の手口だぞ」
502	春希	Haruki	「ぅ…ぅぅ…ぅぅぅぅぅ…っ」
503			痛いんだけど、我慢できないんだけど…
504			その痛みが、なんとなく薬が染みる痛さと重なって、 希望を感じてしまうのが、卑怯極まりない。
505	麻理	Mari	「今日あったことは、全部忘れろ。な？」
506	春希	Haruki	「っ…ぁ、ぁぃ…ぃ、ぃぃ…っ」
507			みっともなく泣きながら、 何度も頭を縦に振る。
508			けれどその時の俺は、 麻理さんの言葉に、まるっきり同意なんかしてなかった。
509			だって、素敵だった… 忘れられるはずがない。
510			麻理さんの匂い。 麻理さんの柔らかさ。 麻理さんの温かさ。	"Mari-san's scent. Mari-san's softness. Mari-san's warmth."
511			麻理さんの…気持ちよさ。	"Mari-san's...comfort."
512			思い出すだけで罪なのに… それなのに、頭から離れない。

Script Chart

Edit this section For more instructions on how the script chart works, please click here.

If you are below the age of consent in your respective country, you are advised to not read any adult content (marked by cells with red backgrounds) where applicable. Otherwise, you are agreeing to the terms of our Disclaimer.

Mini After Story and Extra Episode
The Path Back to Happiness	The Path Forward to Happiness	Dear Mortal Enemy
6001	6101	4000	4005
6002	6102	4001	4006
6003	6103	4002	4007
6004	6104	4003	4008
6005		4004	4009

Novels
The Snow Melts, And Until The Snow Falls	The Idol Who Forgot How to Sing	Twinkle Snow ~Reverie~		After the Festival ~Setsuna's Thirty Minutes~	His God, Her Savior
5000	5100	5200	5205	5300	5400
5001	5101	5201	5206	5301	5401
5002	5102	5202	5207	5302
5003	5103	5203	5208	5303
5004	5104	5204	5209

Short Stories
Princess Setsuna's Distress and Her Minister's Sinister Plan	Koharu Climate After the Passing of the Typhoon	This isn't the Season for White Album	Todokanai Koi, Todoita
7000	7100	7200	7300